◆海外旅行【Hats&aStick】2005~06

2006年10月 7日 (土)

◆イングランド【Hats&aStick】シエイクスピアの墓

_015_4_10 _019_2_4 Rimg0176_2  ※写真はクリックすると拡大できます

 「ヒトゴロシ・イロイロ」 1564年に生れ、1616年に死んだ詩人、劇作家、役者、劇団株主、地方の名士・・・、あのウイリアム・シェイクスピアの生地(聖地とも言うようだ)であるストラットフォード・アポン・エイヴォンにこのい夏の遅い休暇で行って来た。
 
 4日前にグラスゴーを発ち、寒々とした風景のスコットランドに別れを告げて、湖と山々に囲まれ植生も豊かな北部イングランドの湖水地方に入った。湖水地方は『ピーターラビットのおはなし』の舞台となった地であり、作者のビアトリクス・ポターが自然保護活動のために印税を注ぎ込んで購入したというニアソーリー村のヒル・トップ農場に立ち寄った。

 また、湖水地方の自然美を謳いあげた詩人ウイリアム・ワーズワースが最愛の妹と一緒に住んだグラスミア村のダウ・コテージも訪ねた。彼は29歳で故郷に戻って生涯住み続けて詩作に励み「湖畔詩人」といわれた。そして湖水地方の自然保護活動を最初に行った人物でもある。

 湖水地方に二日ほど滞在した後、ムース(荒野・丘)とへザー(ヒースとも言う潅木)が果てしなく続くヨークシャー地方のハワースに寄った。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』で有名になった場所である。そこでは時間の余裕が出来て、一時をへザーの花咲く嵐が丘の散策逍遥に当てることが出来た。

 その後、ヨーク、チェスターを経由して昨晩遅くこの地、ストラットフォード・アポン・エイヴォンに着いたと言う訳である。翌日は朝から街見物に取り掛かったが、真っ先に向ったエイヴォン川沿いに少し歩いた所にある聖トリニティ教会は外壁の修復工事中であった。これと言って代わり映えのしない田舎の小さな教会である。

 私は内部に入って祭壇脇にあるシェイクスピアの墓の前に立った。砂岩の石棺の蓋に墓碑銘らしき文字が見える。脇に置かれた拓本掲示板の文字を辿ってみる。古語なのであろう、解らない文字や単語もあるが「この墓をあばく者に呪あれ」とでも読んだものか。

 喜劇・悲劇・史劇のエンターテインメントのを数々ものしたシェイクスピアの芝居の登場人物には、王侯貴族から乞食まで、妖精からから魔女まで、暴君から処女まで、そして娼婦、暗殺者、奴隷、農民、商人等々ありとあらゆる人物が登場する。長年の人間観察・研究で、人間誰もが本来もっている「どうしようもない性悪振り」を熟知していたばかりにこの様な墓碑銘を刻ませてしまったのであろう。

 大勢の人々の喝采を浴びて、名声を博した彼が皮肉なことに死の床で人間不信を益々募らせてその本音をうかつにも墓場まで持ち込んでしまったことは、洒脱に欠けて、あまりに無粋で往生際も悪いと思うのだが、如何であろう。シェイクスピアが創造した言葉で今もよく使われている英語に、What the dickens is it?(一体全体何事だ?dickens≒devilの遠まわしの語)がある。

 イングランドに入ってからの旅程の半分ほどが英文学科の研修旅行の様相であった所為で文学・演劇症候群に感染してしまったものか、日本への帰りがけのロンドンのホテルで思い付いて、コンシェルジェに65£也を払って取ってもらったQUEENS THEATREの特等席で観たミュージカル「レ・ミゼラブル」は流石に演劇の本場だけあって素晴らしく、今度の旅の好い思い出となった。

’06.10.08 屁眠狗雨詠

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2006年9月 9日 (土)

◆エジンバラ【Hats&aStick】ミリタリー・タトゥー

_082_3_2 ※写真はクリックすると拡大できます

 8月下旬から9月初旬にかけて2週間ほどの休暇が取れてスコットランド~イングランドの旅に行ってきた。今回の旅の目的の一つは夏の国際芸術祭(Edinburgh Fastival)が開かれているエジンバラを訪れて、その一大アトラクション「ミリタリー・タトゥー(Military Tatoo)」を見ることであった。

※Tatooとは入れ墨、彫り物の他に軍隊の行列行進、太鼓をたたき続ける音という意味があり、ここでは後者を指す。 

 当日は夜9時からの開演で2時間ほどのショウなのであるが、この時節の当地としては飛びっ切りの快晴だった所為もあり、未だ8月下旬だとういうのに気温は5℃前後、ホテルから持ち出した毛布が大活躍するほどの冷え込みであった。

 地元スコットランド及びUKを構成する他のイングランド、ウェールズ、アイルランドの軍楽隊を主役に、脇役の招待国(当日はスイス、ドイツ、チャイナ)の軍隊も参加して、エジンバラ城門前広場で1950年以来毎夏開催されている軍楽隊のパレードである。

 中世の空間の中で間近にみるショウは素晴らしい見物、ページェントであった。キルト姿にバグパイプのスコットランド兵をはじめ、部族夫々のアイデンティティーを示す色鮮やかな民族衣装の軍服に身にまとった兵士達の誇らしげな演奏と行進。

 勇壮な太鼓の響と何処悲壮感ただようバグパイプの音色、きらめくライトアップ、会場一帯に膨れ上がった熱気と興奮とに包まれて時は瞬く間に過ぎていった。そして、当夜の開会のセレモニーに市長と共に現れた、あの “007” サー・ショーン・コネリー(エジンバラ出身)の禿げ頭を謀らずも拝めたことは一寸した話の種となった。

’06.09.09  屁眠狗雨詠

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2005年11月14日 (月)

◆グラナダ【Hats&aStick】アランブラ宮殿/ジプシーダンス

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◆秋尽やアランブラ夢遥かロマの舞う    与里

  それは、手前の急峻に切れ込んだ深い渓谷の闇に続く漆黒の夜空に辺りから切り離されて浮いている様であった。明日の一日を掛けて訪れようとしている赤い丘の宮殿、ライトアップされたアランブラである。

 万年雪を頂くシェラ・ネバダ山脈の支脈の上、海抜700mにあってアンダルシアの宝石と呼ばれる人口30万人のグラナダにはダーロ川を南北に挟んで沃野に盛り上がる二つの丘がある。

 私は今その北側のサクロモンテの丘にいる。かつてのイスラム時代の街並みが残るアルバイシン地区、現在ロマの人々が多く住む洞窟住居集落近くの展望台広場から、その南側に屹立するもう一つのサビカの丘に建つアランブラ宮殿とその先に拡がる市街地を臨んでいるところである。 

 その朝、最古の闘牛場で有名な南アンダルシアのロンダを発ち、海岸の白い家並みの街ミハスを経由して今宵グラナダに着いて夕食もそこそこに、この丘にあるロマの洞窟住居で催されているジプシーダンス・ショウを見に来たのだが、帰り掛けに夜景を見ようと眺望の利く場所に立ち寄ったところである。

 秋の夜も既に11時過ぎであるが夜の遅いスペインでは未だ宵の口なのでしょう、少なからぬロマの男女があちこちにたむろして人影を作り、時折こちらを窺うように見るその鋭い眼が暗闇の中で光っている。  

 旅の案内書に「この地区は人通りの少ないシエスタ時や夜間の見学は危険なので避けるべし」とあったが、先程の洞窟訪問もこの広場においても今宵の我々のようにロマの案内人を付ける限りでは安全のようであった。

 思い出したように又降り始めた秋の時雨が目の前に浮かぶアランブラ宮殿を霞ませ、観て来たばかりのジプシーダンスに興奮してほてった頬にかかる雨のしずくが心地好い。

S125_3_4  間口4m弱、奥行き7~8mの18畳程の洞窟住居の粗末な椅子に27、8人の観客を詰め込んで、中央に敷いたベニア板を舞台に見立てて、一人の歌手と一丁のギター・木箱ドラムの伴奏で踊り子が手足を打ち鳴らして激しく踊るジプシーダンス・ショウは其々5人一組で構成された二組のファミリーが交代で一時間程演じるものであった。

 そして想像を遥かに超えるその熱演振りは狭い洞窟中にこだまして、舞台を囲むどの客席も踊り子がひるがえす裳裾に触れるカブリ付きと言うこともあって迫力満点で、胸に迫って来るものがあった。・・どこかで聞いた様な台詞であるが、近頃に無く「感動した!」。 

 洞窟ショウの楽屋は舞台片隅の椅子です。そこでは屈託の無い所作や笑顔を見せる未だうら若い踊り子達が自分の出番になり椅子から立ち上がって舞台へ一歩踏み出すや否や背筋を伸ばし、眉間に縦じわを刻んで、口を結び、挑む様に前方を見据えて、一人の個性的な大人の女になってりりしく踊るのである。

 踊りの進行に伴って彼女等が見せるメリハリの利いた表情の変化はアンダルシア、いやスペインの女が人生で遭遇する様々な場面での女の生き様を象徴しているのではなかろうか。

 フラメンコダンスはこのジプシーダンスが基をなしていると云われますが、二日後にセビージャの劇場で見た本場のフラメンコダンスは洗練されてスマートになった分、原初的な迫力が欠け落ちてしまったのではないかと思った。

 又前日、ロンダでの朝の散歩でアーネスト・へミングウエイが住んだ家とそこから彼が毎日のように通ったと云う闘牛場への小道を歩いた所為か、この夜ジプシーダンスの踊り子達が見せてくれた表情の様々が、彼の作品「誰がために鐘は鳴る」の私の頭の中に居る登場人物達、取分け女性達に新たな息吹を与えてくれたようである。

 

‘05.11.14.PM   屁眠狗雨詠

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2005年9月13日 (火)

♠青天井【じじぶつぶつ】コントラスト

05072_041_3_3  『小泉さんは「自分は死んでもいい」と言って、悪い人達を切ったでしょう。カッコいい!』と、初めて投票所に行った若者達。今度の衆議院総選挙は多くの浮動票が動き、小選挙区制の定着化が進んだ結果とはいえ、小泉自民党のこれ程までの一方的な勝利は私には予想外のことであった。

 善悪、好悪は別として、より迅速な意思決定手法の政治への導入という点では歴史的な転換点であったのではないかと思う。21世紀に入って日本でも浸透急な世界標準と呼ばれる「ルール至上の自由・市場・資本主義経済」がもたらす競争による容赦ない「優勝劣敗」は、企業統治と意思決定のより迅速・効率的な仕組みへの変革を既に課している。

 鎖国江戸の農村で競争よりも和を尊ぶ政治風土で育まれた根回しと妥協による全会一致型の政治手法は事前に合意することで誰もが責任を負わないで済む決定をし、また人情や事情の機微を汲み取って執行することで仲間内に遺恨を残さないというものであった。
 
 そして地域、族、閥の人情(顔)・事情(腹)を熟知し、根回し・談合・妥協の手法を駆使できる専門家として所属を裏切らない政治家が代々育てられて来た。しかし、この国の政治風土は明らかに変化が起きたようである。190数カ国が地球上にひしめき、通信・交通手段の発達で総国家間競争時代ともいえる今日では、国家の統治経営に当っては効率的で迅速な意思決定手法の導入は必然のものとなったようだ。

 小泉氏の標榜するのが“特定の政治勢力に左右されない政治”や“大統領的内閣総理大臣”だとしても、彼が今度の選挙で採った「郵政民営化に賛成か、反対か」とそれだけを問う戦術は、どうせ理解できないだろう政策論より分かりやすければいいと高をくくっていると思う。大げさな見出しで客を釣る一部の週刊誌や夕刊紙と同じ手法を選挙に持ち込んだ訳で、選挙民が見くびられた様で不快であり、衆愚政治の臭いも漂う。
  
 街々から子供達を連れ去る“ハーメルンの笛吹き男”、“今後の世論”、そして私物化されたとも言える自民党は何処へ向うと言うのだろうと一抹の不安を感じているのは私ばかりではなかろう。しかしより高い観点から俯瞰すれば小選挙区制も機能したし、エポックメーキングな結果であったことに変わりなく、日本の政治がより柔軟に時代の課題に対応できる仕組みを持とうとする新たな第一歩を踏み出したものと理解した所である。

 余談であるが、「白か黒か」を大っぴらに迫る今回の小泉氏の手法は湿潤・豊穣で多神教の農民の国には馴染は無く、農業に不向きな乾燥地帯の遊牧民の中から起こったユダヤ教やキリスト教そして「剣かコーランか」のイスラム教などの一神教の世界に顕著な対決手法である。ここ数年の経験に過ぎないが、この夏のヨーロッパへの旅でその乾燥気候の晴天が作る中庸を赦さない明解な陰陽に触れたことで、其々の文化・文明の性(さが)がその発生の地に拠って起つ宿命を実感した。

◆写真は、ポルトガルはバターリアのサンタマリア修道院の未完の礼拝堂の青天井(虚空)
 
’05.09.13.PM 屁眠狗雨詠

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2005年7月19日 (火)

◆リスボン【Hat&Stick】Flora Silva嬢/The gold voice of Fado

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  梅雨時に取れた休暇で10日間ばかりのポルトガル旅行に行ってきた。若い時のギックリ腰からくる私の持病の腰痛は毎年湿気の多い季節の変わり目が発症の要注意時期であり、帰国した翌日に関東地方が梅雨明けとなったのは幸甚であった。行く先を同国に拘わる理由は特に無かったのだが、未だ何時でも何日間でもよいという訳には行かない身の上で、欧州行きツアーの中から日程優先で選んだ結果である。
 
 記録的な水不足、気温35度前後の熱暑ながら大西洋に面して風の吹く土地柄の所為で朝夕や日陰での清涼感は格別で、日照時間が長く晴天続きの乾燥した葡萄牙の夏は私にとっては快適でまた今回の旅を効率的で楽しいものとしてくれた。
 
 またイタリア、フランス、スペインという地中海に面したヨーロッパ諸国に比べ同国の遺跡や街並・建築は一級品が少ないとはいえ、真夏の強い日差しと乾燥した大気が作り出す白か黒かを迫るくっきりとした構築物のコントラストが所々に色鮮やかな夏花を配した多目の緑の中に映えて美しい。

 また、そこに住むやや小柄な人々は他のヨーロッパ人には無い温和で純朴・シャイ・ウエットな気風をもっていると言われ、旅先での彼らとの触れ合いも警戒心のあまり要らぬ、肩肘の張らぬものがあった。ここは風土も人も通りすがりの旅人の心を開かせ癒してくれる優しさが未だ色濃く残っているようだ。市場などでは商品の魚や果物、花などを掲げてニコニコ顔で一緒の写真に納まってくれるなど、純朴で人懐こい人が多いことで街歩きは一層楽しいものとなった。
 
 しかし調子に乗っての失敗談も多くあえて幾つか下記に吐露する。それまで美酒(ワイン)の存在は疑わぬまでも、佳肴(かこう)というほどの料理との出会いも無いままに、ある街のレストランで美味しい郷土料理に出くわして一言ほめるつもりが、目前に迫るウエートレスのあまりの恰幅の好さに、つい、思わず「・・・Mu、Mu、Muito、Muito Boin!」などとあらぬ台詞を口走ってしまったこと。(Esutava muito bom=It was very good)

 また、ファドを聞かせるレストランでは幕開けの淡谷のりこ嬢には眼もくれず、カンツォーネ風男性歌手も無視して、トリをつとめた女性歌手のすこぶるつきの熱唱に共感のあまり、大音声で「Bravo!Bravo!」の二声は如何せん!やり過ぎというものであったようである。

 かの地の人はシャイな人が多いと聞いてはいたが、他に思い切りよく褒める客などもなく、かぶりつきの席を占めていたとあっては、彼女の関心を一身に受けて合うこととなり、大枚のユーロを代価にサイン入りCDを購入するハメに陥ったのも必然か。(彼女の熱い接吻がおまけに付いていたか如何かは想像にお任せします)

 このような珍事件の発生は今度の旅では枚挙にいとまなく、それらが引起す波風?に耐えて何とか無事に昨日の帰還にこぎ着けたというわけである。にそして今、くだんの女性歌手Flora Silva嬢のCDを聴きながらこの拙文を書いている。帰ってからのことであるが、彼女はあるポルトガル案内本のファド紹介写真に写っている女性と同一人物らしい(ファド・レストランの多い下町のアルファマ地区でNO.1歌い手だそうだ)と分かって今は、我ながら少々得意な気分である。結果的には “瓢箪(ひょうたん)から駒”、いや ワイン樽からビショップ“と言うべきか。

◆添付写真は
①城壁に囲まれ“谷間の真珠”といわれオビドス。1282年デニス王が王妃イザベルへプレゼントして以来1834年まで代々の王妃の直轄領であった。今なお中世のままの姿を止めている人口800人ほどの村で、私の今度の旅で気に入った街の一つであります。中央は満開のブーゲンビリアの花。
②リスボン、バイロ・アルトのファド・レスットランの女性歌手Flora Silva嬢
 
‘05.07.19.PM  屁眠狗雨詠

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2005年6月26日 (日)

◆クロアチア【Hats&aStick】伯爵夫人のオードブル-Sのレシピ-

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 「昼でも星が見える」といわれるアドリアの空は急速に赤みが射して、断崖上のテラスから見下ろす所々に砲台のある城壁に囲まれたヴェネツィア風の港都は沈みゆく太陽を背にして黒々とした巨大な塊のあちこちに灯火を点して、濃い紫、よく熟したブドウ色の海は海面に夕焼けの空を映してらてらとした薄皮を拡げはじめた。海面を吹いてくる風は心地よく、振り返れば星々を従えた月が山を昇ってくる。・・・間もなくこの吉日の特別な夜、秘密の小宴の帳(とばり)がひらく。

  陽はようやく海の彼方のイタリアの山々に沈み、海を望むテラスに点されたばかりの松明の炎が輝きを増す。華やかな花々と豊穣の果物で彩られたテーブルにはよく冷えたシャンパンがセットされ、服装を整えた給仕頭が脇に控える。楽師たちが合わせ始めた弦のかすかな響が聞こえてくる。そして、せわしげな羽扇の動きが止まる。

 ・・・と、ホールにつながるフランス窓が開いてお気に入りの侍女の歌うような声「侯爵様の御成りでぇ~す」。迎礼に捧げられた紅白一対のバラの花と公爵閣下の熱いまなざし、豪華な胸飾りによく似合う伯爵夫人の微笑み、そして満天の星屑と楽の音と・・・。

 アドリア海、イタリア半島とバルカン半島のあいだにあって、東西の幅100~150km、南北800kmほどの細長い袋状の海で、イタリア半島のかかとの部分と対岸のアルバニアが作る南端は袋の口のようにすぼまった70~80km幅のオトラント海峡で地中海とは一線を画している。そこは緩やかな商圏が形成されて頻繁に船舶の行き交う古代ギリシャ以来の独立した海洋文化圏=アドリア文化圏である。

 『袋の底にあたるヴェネツィア、トリエステ、南のアンコーナ、バリなどのイタリア側の港都はおなじみだが、対岸のバルカン半島側はあまり知られていない。トリエステにはながらくハプスブルグ帝国の軍港があって、大公や貴族たちは海軍視察のみぎりにバルカンの港を訪れ優雅な島巡りを楽しみ、別荘を構えた。そんなわけで細長い海をはさみ、一方は「ベニスの商人」の商域として、もう一方は安らぎの土地として発展した』(池内 紀「街角ものがたり」)という。

 バルカン半島側の海岸一帯はは歴史的に有名な観光地・保養地が連なっている。ドゥブロブニク(ラグーサ)、スプリト、トリギル、プーラ、ロヴィニ、・・・そしてフヴァル、ヴィス、コルチュラなどの島々である。この地の歴史は非常にややこしいが概ねは、古代ギリシャの植民地としてひらかれ、ローマ、ビザンツ、ハンガリー、オスマントルコ、ヴェネツィア、ナポレオン時代のフランス、1919年までのハプスブルグ家のオーストリア帝国などこの地は次々と列強の手に落ちてきた。時の貴族、高級官吏・軍人、豪商たちの保養地としてかつて名門ホテルが建ち並んだこの地はヨーロッパのブルジョアたちの羨望の地でもあった。

 しかし第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア王国、第二次世界大戦後のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国設立による圧政と貧困、鎖国によりこの地は著しく荒み、寂れた地と化した。そして1991~2年にかけての社会主義連邦共和国の崩壊で他の5国(スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、新ユーゴスラビア連邦共和国)と共に独立して現在のクロアチア共和国となった。独立後も続いた内戦による痛手からようやく立ち直り今や一流の保養地として甦りつつあり、それに伴って古来培ってきた社交や酒肴文化も又甦ろうというものである。

<伯爵夫人のオードブル -Sのレシピ->
(恋の前菜:クロアチア風スズキのカルパッチョ) 

1.小骨を取り除いた生きのよい天然物のスズキ(イサキ、タイ、などの白身の魚又はタコ)の刺身(薄造り)をボウルに入れて、良質のオリーブオイル、自然塩、挽き立てのピンクペッパー、隠し味の顆粒の昆布茶少々をまぶし軽く混ぜ合わせて冷蔵庫で30~60分寝かす。

2.10種類以上の葉もの野菜・香草に極薄切り新玉ネギ、カイワレなど好みの野菜を加えてよく混ぜ合わせ大きめの平皿に敷き並べて、その上に先の刺身とオリーブの実を美しく盛り付けてフライドガーリック、化粧のピンクペッパーの粒を散らし又、必要に応じてその日のターゲットに合わせて処方した“ほれ薬”を事前に加えて食卓に飾りつける。

3.食前に客の面前にて上等のバルサミコ(酸度6%は好みで)をたっぷり振りかけ、刺身と野菜を優雅かつ手早く混ぜ合わせて銘々の皿に取り分ける。

※現地に因むならば魚は夏を旬とする近海もののスズキを、野菜類は日常あまり見掛けないものを加えるのがコツである。酒はよく冷えたシャンパンor白ワインがよく合う。ついでながら隠し味の昆布茶についてはS秘伝であり、貴方処方の“ほれ薬”ご同様、お取り扱いは貴方だけの内々のことにて願う次第である。

※オリーブの木々と幾種類もの香草が茂る石灰岩のカルスト地形が急激に海に沈みこむリアス式海岸の深い海が作る紺碧~濃紫の海とあくまでも明るく温暖で乾燥した地中海性気候がこの地の風土の特徴。そこに住む人々は南の海、広義の地中海に顔を出す数少ないスラブ系民族。なおリアス式海岸の名や我々が何故か長年首を絞められているネクタイはクロアチア(スプリット)が発生の地ということのようであります。

◆写真はアドリア海に浮かぶドゥブロブニク。①伯爵夫人「夕陽の港都」、②侯爵閣下「曙光の港都」

’05.06.26.PM  屁眠狗雨詠

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